私だけの賢者(サヴァン)
―――貴方の話を聞かせてください。
彼はいつもそういって私の話を聞いてくれる。
彼と出会うのはいつも”夢”の中だ。
深く、深く、暗い底のような微睡みの中に彼はいる。
私の中に生まれたのか、それとも私の外に生まれたものなのか、それはわからない。
確かなことは、彼は私から生まれた。それだけはなぜかはっきりとわかった。
彼との語らいは楽しく、嬉しくて、幸せで、そして、寂しい。
私には彼しかいないし、彼にも私しかいないのだろう。
―――ぼんやりと。暗闇の世界に光がうまれスポットライトがあたる。ライトの下には古めかしい木製のベンチ。
簡素な作りで板を張り合わせただけのもの。手すりは真鍮。長い年月、雨にさらされたかように錆が目立つ。
いつもそうしているかのような自然さでベンチに腰掛ける。
ほっ、と息をつき目の前の闇を見つめる。
暗く暗く、飲み込まれそうになる。
先にはなにもなくて、恐怖が、畏れが、胸をゆっくりと締め上げていく。
ぐっと。ゆびに力がこもる。
それを見透かしたかのように、彼が現れた。
―――こんばんわ。
音のなかった世界に、ポンと、溶け込むような声が響いた。
黒い闇よりも黒く、光のない世界なのにもかかわらず、彼の姿ははっきりとしている。
黒い燕尾服、黒いシルクハット、黒いステッキ。
整えられたひげ、モノクルをかけて、老人のようにも青年のようにも見える。
ただ、彼の顔だけははっきりと見えなかった。
見えているのに見えない。彼の貌はわからない。
―――お嬢さん、おひとりですか?
私は、うなづくだけ。
―――御隣よろしいですか?
私は、うなづく。
―――ありがとうございます。
彼は恭しく一礼をする。主人に向けるようで、王に向けるようで、私にそれは向けられた。
彼の横顔をそっと覗き見る。
やはり顔はわからなかったが、ただそこにいることが当たり前で、そこにいることが必然のように、
私は安心感にみたされて、必要な埋まった感覚になった。
―――おじょうさん。あなたの話を聞かせてください。
彼はそういった。
いつものように、いつものようで、
#ただ彼と出会ったのはこれが”はじめて”のはずなのに#
私は、ぽつり、ぽつり、と、砂場に水を落とすように言葉を零していった。
今日あったこと、楽しかったこと、うれしかったこと、つらかったこと、
さびしかったこと、こわかったこと
過去のこと、未来のこと。
私のすべてを語った。
彼は、私のことばを相槌を打ちながら、黙って聞いてくれる。
言葉をはさむこともなく、ただ黙って、うん、うんと優しくうなづいてくれる。
私は、それがうれしく、うれしくてたまらなかった。
どれだけの時間が流れたのだろうか、この世界には時計もなく、体の感覚もない。
悲しいことはないのに、さびしくもないのに、語調はそのままで、
つーっと水滴が頬を伝う。
はじめはなにかわからなかったが、触ってみると、私の涙なのだとわかった。
そして、彼が、
―――おじょうさん。つらくなくても、かなしくなくても、人は涙を流せるのです。
その涙はあなたがまだ、人である証拠です。
人はうれしいときにも涙を流せます。
貴方は人です。人間です。つらいことがあったでしょう。かなしいことがあったでしょう。
でもあなたは人間ですよ。
ふつうの、人間です。
なぜかその言葉が胸に刺さった。
私は、わたしは、わたしは、人でいいのだろうか。
人間とよばれていいのだろうか。
そのことばに救われた気がした。
ゴーン、ゴーン、ゴーンと、鐘の音が聞こえた。
どこから聞こえてくるのかはわからないが、体の芯までに響くその音は、なにか始まりを告げるものだとわかった。
そして、彼との別れを告げる音だとわかった。
―――おじょうさん。「今日は」ここまでのようですね。
わかれたくない。あなたと離れたくない。
その言葉を受け止め、彼は悲しそうに首を横に振る。
―――おじょうさん。私はいつでもここにいます。「いつも」あなたを見守っています。
だからそんな悲しい顔をしないでください。
―――また会いましょう。
ジリリリリリリリリリ。
けたたましく、目覚まし時計が朝を告げている。
うすぼんやりした頭で、ぽっかり胸に空いた”なにか”を探すが、それがなにかはわからない。
さぁ今日も今日が始まる。
”忘れることができない”私の今日がはじまる。
私は、サヴァン症候群。忘れるのことができない脳の欠陥をもって生まれ、人の姿をした、人ではない私の一日がはじまる。
「ただ彼の”あなたは人間”という言葉に救われて、今日も私はいきていく」